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7.「まい」との戦い(舞シナリオ)
舞シナリオの「主題」とは何でしょう。シナリオの終盤、畳みかけるような展開から、分かりにくい点も多いのでしょう。特に、舞シナリオ最大の謎とされるのが、舞の自害が意味することであります。掲示板最大の考察系スレッド、「舞の切腹」シリーズが今も稼働中であることの由縁であります。「舞の切腹」では、舞の自害の意味を巡って、幾度も激論がかわされてきました(「舞の切腹」、「続」、「続々」、「不滅」、「永続」、「輪廻」、「再来」、「復活」)。
しかし、『Kanon』がファンタジーであることを考えれば、答えは、はじめから用意されていました。
“影との戦い”そうです。舞シナリオの「主題」は、“影との戦い”だったのです(それは、「様式」であると同時に「主題」です)。
ギルガメッシュは、自分と瓜二つの荒くれものがあらわれたという噂をきくや、…二人は激突し、大地も唸るような戦いを繰り広げる。争いに力を使い果たした二人は、やがて怒りをしずめ、手をとりあう。…ギルガメッシュは、瓜二つのエンキドゥのなかに鏡に映したような自分の似姿を見る。と、それは自分より荒々しく凶暴な、もう一人の自分であった。そして怒りをしずめ、人間らしくなる。
これは、自分の意識と認識が誕生するドラマをタブロー(絵)として描いたテキストである。…この新しい精神の段階をへたのち英雄は、フンババ退治という大冒険に勇躍出陣できるのである。
ここにあるのは、<対>のほとんど完全なエクリチゥールである。対の誕生は、セットされた相手への「同化」と、相手とは違う自分の発見という「異化」との、二つの相反する方向への反応をふくむドラマである。…
………
このように、対の神話は、肉体と精神の、また影と魂の分裂と分化の神話でもある。その意味で、エンキドゥの誕生と発見がなければ、ギルガメッシュのフンババ退治の冒険行もなかったといえるだろう。
一月三十日祐一の思惑はともかく、舞はここで裏切られました。自分の力を恐れ、また一人、自分の元から離れていったのです。しかし、その時の舞には、「現実」を直視するだけの勇気はありません。結果、舞は「現実」から目を背け、嘘をつき続けることを選びました。「魔物がいる」「私はまちがっていない」その魔物を生み出したのが、自分の『力』自体だということを忘れてです。
祐一「魔物なんてどこにもいないよ」
少女「ほんとうにくるんだよっ…あたしひとりじゃ守れないよっ…」
少女「一緒に守ってよっ…ふたりの遊び場所だよっ…」
少女「待ってるからっ…ひとりで戦ってるからっ…」
それが本当の最後だった。
一月三十日ここで『力』とは、五匹の獣「まい」、すなわち、もう一人の自分“影”です。「あたし」とは、舞です。ここで、舞は“影”との和解を果たします。
(もうすぐ、来るよ)
そう『力』が言っていた。
「くるね」
あたしは答えた。
エピローグもちろん、このエピローグにおいては、舞は未だ幼く、成長途上の存在です。しかし、そこには確かに、「成長」の予感があるのです。
さて…
祐一「いくか」
俺は来た道を振り返る。
もし夢の終わりに、勇気を持って現実へと踏み出す者がいるとしたら、
それは、傷つくことも知らない無垢な少女の旅立ちだ。
辛いことを知って、涙を流して、楽しいことを知って、心から笑って、
初めて見る日常の中を生きてゆく。
そして俺はその少女と共に旅路をゆくらしい。
まったく、佐祐理さん共々、とんだ巻き添えを喰らってしまったものである。
そんな物知らずな物語のヒロインが…
祐一「おいっ」
舞「……?」
こいつだ。
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